自分を知る/いじめや不登校は_ [仕事に就くために]

今までの人生を振り返る時、触れたくない経験もあるだろう。
いじめ、不登校、‥‥ だけど、
今、就職活動に臨もうとしているのなら、恐れることなく目を向けてみよう。
過去の経験として、客観的に見詰めなおし、新しいステップに進もう。


  ‥‥ 人をいじめた経験が有る、という場合 ‥‥

人をいじめる、という行為に出るのは、自分の中の不安に苦しんでいるからである。
例えば、両親の不仲をはじめ、過保護や過干渉、反対の放任や無関心などが考えられる。

  未成年という、まだ人格が確立していない成長途上の人間は、
  在りのままの自分を肯定し、見守ってくれる「居場所」が必要である。

自立できないままで、ふらふらしている状態の不安。
その心細さが、何とか不安から逃れようとする行為に走らせる。
人をいじめることで、自分には力が有るのだという感情が生まれる。
集団でいじめる場合には、自分には味方がいるという安心感も得られる。
人を屈服させる優越感、有能感、自分で自分を肯定しなければ生きて行けない。
勝ち誇ったような外見とは裏腹に、心の中は心細さでいっぱいなのだ。

人をいじめた経験が有る人は、
  この不安、心細さ、無力感などを、受け止めることから始めなければならない。

一瞬先には何が起こるか分からない。
   だから、生きている限り不安は当たり前。
自分が自分であるためには、一人になることを避けることは出来ない。
   だから、心細さを感じるところから独り立ちが始まる。
何もかもが完全に出来る、なんて人は居ない。
   だから、無力感だって特別なものではない。

重要なのは、自分の中の気持ちを尊重して、正面から向き合うかどうかである。
読書、芸術、スポーツなどが、不安定な若者の心を支える。
古来から、優れた言葉を求め、本物の美を求め、肉体の技を求めてきた。
自分自身と向き合って、本物の自分に出会おうと努力したのである。

それに反して、他人をいじめる、と言うのは、自分から逃げたのである。
自分の心と向き合い、気持ちを大切に育てる、という努力から逃げた。
自分の心を無視するために、他人の苦しむ心を踏み躙ったのだ。
他人の心を踏み躙る行為は、本当は、自分の心を踏み躙っていたことになる。
人をいじめながらも、心のどこかで、苦しい気持ちがしていたことだろう。
気付こうとしなかっただけで、心は小さな声で語りかけていたのである。

この様に考えれば、
   いじめをした人は、自分を取り戻すことから始めなければならない。

先ずは、自分の気持ちを振り返って、しっかりと受け止めてみよう。
それが、自分を大切にする第一歩なのである。


  ‥‥ 人にいじめられた経験が有る、という場合 ‥‥

いじめられたけど、人をいじめることはしなかった、という人は心配無用。
他人の心を踏み躙る、ということと無縁の生き方が出来る。
いじめられて辛かっただろう。悔しかっただろう。
だけど、自分のところでストップをかけられた。
踏みとどまる強さが有ったのだ。
本人が自覚していなかったかも知れないが、健全な心が存在した。

既に、学校に通っていたり、就職活動をしているのなら、
いじめにも関わらず、成長の階段を進んでいる、ということに胸を張ろう。

まだ、学校に戻れない、就職活動にも及び腰、というのなら、
辛かったけど、悔しかったけど、自暴自棄にならなかった自分を見直そう。
苦しい時に、じっと耐える、という姿は、表面的には何もしていない姿に見える。
けれども、何もしない、ということが、
   時としては、人間として最も尊い在り方だ、ということも有り得るのだ。
自分勝手に、他人を踏み躙る行為に出る人間よりも、ずっと偉大なのだ。

じっと耐えている自分を、優しく見つめてみよう。
そして、よく我慢したなぁ、と褒めてやろう。
そっと、自分に向かって、優しい微笑を向けてみよう。
急ぐことは無い。
ゆっくりと腰を上げて、そろそろ遣ろうか、と、ゆっくりと立ち上がろう。

自分の気持ちを守ったのだから、他人の気持ちも守れるだろう。
少しずつ、優しい繋がりを広げて行けば良い。
じっと耐えることが出来たのだから、じっと守りあえる人と繋がれば良い。
苦しんだ分だけ、人の苦しみが理解できる人として、信頼されるだろう。
派手な付き合いよりも、本当の付き合いを。
そういう生き方を目指して欲しいものである。


  ‥‥ いじめられた・いじめた、両方の経験が有る、という場合 ‥‥

先ず、いじめる、という他人を踏み躙る行為をした責任を考えなければならない。
次に、いじめられた自分も、慰めてやろう。

どちらも、自分の心の中がどの様に動いたのか、を観察する必要がある。
自分の心の動き方を知って、自分の心を自分で制御するのが、自律である。

人をいじめて強がっても、自律できないままなら、やがて自分を踏み躙ることになる。
人にいじめられて苦しんでも、自律できれば、やがて信頼される人になる。

いじめられた人よりも、いじめた人の方が、自律への道は遠い。
しかし、これからの自分を大切にするためには、今を考えるしか無い。
一人一人が、自分自身を大切に見守りながら生きて行きたいものである。

タグ:自律
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