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履歴書は手書きに写真貼付、その意味 [仕事に就くために]

ネットを散策していたら、就職活動について気になる書き込みを見つけた。
エントリーシートや履歴書に関して、
  手書きに拘るのが分からない。
    ワープロ打ちの方が読みやすいのに、と。

また、履歴書に写真を貼らなければ為らないのもおかしい。
    顔の美醜で選ぶ訳ではないだろうし、
    面接で遭うのだから必要ない、という。


            ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

① 履歴書の写真

  高校や大学の入学試験の時、受験の願書に写真を貼ったはす。
  また、学生証には写真が貼られていたはず。

    どうしてか。考えたことは無いか。

  そう、写真は本人確認のために必須なのだ。

 学生には、多種多様な社会的特典が認められている。
    通学のための交通機関や、様々な文化施設での学生割引(学割)料金。
    こういう特典を利用するために学生証を提示する。
    学生ではない人間が、偽って特典を使うのを防ぐためだ。

 また、入試などの資格試験では、願書提出に際して必ず写真が求められる。
    身代わり受験を防ぐためである。
    写真が無ければ、年恰好が似ていれば誤魔化されてしまう。
    公正な選考を実施するために、当然の措置である。


 今までの受験体験や、学生証の利用に際して、
    本人確認をされている、という自覚は無かったのだろうか。

        自分が生きている現実を、しっかり見詰めよう。


② 提出書類の手書き要求

 同じ教室で授業を受けている仲間のノートを、覗いてみたことは無いか。
 或いは、試験前にノートの貸し借りをしたことは?

   同じ授業を受けていても、誰一人として同じノートには為っていない。
     みんな違う。
   同じ借りるなら、あの子のノートが有り難い。
     見やすいから、分かり易いから。
     そういうノートを書きたいものである。

 教室にパソコンを持ち込んでいるから、ノートだって手書きではない。
      そう言う人も居るかも知れない。
 けれども、社会に出て仕事に従事すれば、必ず手書きが必要になる。
 一寸したメモ、伝言を大事な時に、大事な人に渡すことになる。

  接客中の上司に緊急用件をメモにして、応接室の客の前で手渡す。
  大事な顧客に覚え書として、ほんの一言を書いて伝達する。
     そんなことは、日常茶飯事に生じるのだ。
  それを、字を書くのが苦手だから、なんて言っていたら大事な仕事は回ってこない。

  上手でなくても良い、読みやすい字を書けるようになろう。
    必要なら、ペン習字の練習帳でも買ってきてなぞってみよう。
    語学やパソコンと同様に、時間と労力を投入しておく価値は有るのだ。

  昔から、「文字は人を表す、と言うが如し」、である。
    どの様な字を、どの様な並び(文章)で書き記すか、で人物を判断する。
    その判断材料として、手書きでの書類を求められる、と言えよう。


さて、手書き書類の提出を求められるのには、もう一つ重要な要素が考えられる。

それは、集中力。
  消しゴムが使える鉛筆ではなく、ペン(万年筆)かボールペンを用いる。
  誤字脱字は絶対駄目。
  書き間違ったら、修正インクではなく、最初からの書き直し。
  書き終えるまでは気が抜けない。
    集中力を求められるのだ。

  前もって下書きを準備すれば、書き写すことだけに専念できる。
  その分、下書きの作成に時間と労力が必要ではあるが。

  この、下書き作りと書上げまでの集中、‥‥それが応募者に求められているのだ。

仮に、エントリー・シートや履歴書はワープロでOK、という企業であれば、
審査の何処かの段階で、論文試験が課されるだろう。

  2~3時間、部屋に缶詰にされて課題を与えられる。
    最初の30分ほどで、論旨をまとめ、文の構造を組み立てる。
    後は、ひたすら書きまくる。

  漢字を確かめることも、データを引用することも出来ない。

  自分の中にある知識と文章力だけを頼りに、体力仕事で書き綴るのだ。


下書き作りの労力、プラス、書き写しの集中力を、書類提出時に示すか、
知識と文章力、プラス、即興的に書き上げる集中力を、選考場所で示すか、
   時期と場面の違いが有るだけで、
   企業が見極めようとしている内容は同じ、ということである。


手書きの書面を一切見ようとしないで決定される採用。
  それは、人間として期待するのではなく、単なる作業者。
  機械の代用でしかない、と心得ておいた方がよい。

手書き書類を求められる、というのは、人間を見ようとしてくれているのだ。
  選考する側も、書面から人物を知る、という努力が必要になり、
  どの様な人物を採用するかが、企業のこれからを決定する。
  企業の将来を託しての、重要な作業をしようとしているのだ。

だから、手書き書類の提出が要求されたら、精一杯、丁寧に作成して提出しよう。
面接官だけではなく、採用関係の多くの人の目を通って判定されるのだから、
面接場面で必死に訴えるよりも、書類の印象は重要である、と言える。

人を使う立場の人は、知っているのである。
  長い歴史を通じて、人を見ることの重要性を、
  そして、人を知るには文字を見る、という方法が有効である、と。
だからこそ、企業の採用における選考指針として重視されるのである。

タグ:履歴書 写真

「選ばない」を「選ぶ」という生き方 [仕事に就くために]

人は常に何かを選んでいる。
朝、目覚めて直ぐに起きようか、もう少し布団の中に居ようか。
昼には、何を食べようかと店やメニューを選ぶ。
夕方には、家に真っ直ぐ帰るか、ちょっと寄り道しようか、等々。

日常生活での折々の「選ぶ」行為。

だけど重要なのは、人生の節々での進路を「選ぶ」決断だ。

進学、就職、・・・・
それまでにも、子供の頃の、何をして遊ぶ?
  お稽古事は?
  クラブ活動には何をする?


自分のしたいこと、というのは、そういう様々の「選ぶ」過程で分かってくる。

さて、自分で選ばないで、周りの言うままについて行くのはどうか。
親の言うことをよくきく、いわゆる良い子。

自分では選ばない、というのではない。
自分では選ばない、ということを選んでいるのだ。
  その方が、親が文句を言わない。
  その方が、親が喜ぶ。
  その方が、親が褒めてくれる。
つまり、自分にとっても、居心地の良い状態が保てるのだ。


  自分は、選ぶ、という生き方を選んだか。
       選ばない、という生き方を選んだか。

   どちらの生き方を選んできたか、を考えてみよう。

今まで、どんなことを選んできたか、を考えてみよう。
そこから、これからの選び方が見えてくるだろう。

人生は、「選ぶ」の連続だ。
  その自覚が出来なければ、これが自分だ、という生き方はできない。
  このキーワードを、胸の内でしっかりと受け止めてみよう。

自分が選んだ事については、説明するという手間が必要になる。
「選ぶ」という第一歩を省略したままでは、言葉の世界には進めない。
幼い子が、親に分かってもらおうと必死になって言葉を考える。
    分かってもらうために、説明をする。
大人の世界で重要なコミュニケーション能力も、本質は同じである。


            ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「選ばない」を「選んだ」、という人として、菅直人氏を考えてみよう。
  「~さんにお任せして」、「熟慮して」という文言が目立つ。

「~さんにお任せして」は、他人任せ、
「熟慮して」は、先延ばし。

これ程の、分かりやすい人は居ない。

  父親が技術者だったから理工系の大学に進んだ、とは本人の弁。
  だけど、技術者として就職することは無かった。
    進学、就職、どちらも自分で選ぶことはしなかった。

  厚労相時代のHIVの一件も、他の人が進めていたことを、
  伸子夫人の「今だ」という指示で、地位の利を生かした、という。

そういう人が、今は、日本のトップ。
他人任せ、先延ばし、・・・・その行く先は・・・・

この人が選んだのは、自分では「選ばない」 = 責任を取らない。
何も決めないから、責任を感じることも無い。
他人に嫌われないために、他人に任せっきりにする。
それを、権限の委譲、と混同しているから質が悪い。
  任せてやってる、という傲慢さ、だ。

その結果、
任せてやってるのに、気に入らない、となると、腹を立てる。・・・・ イラ菅
任せてやってるのに、火の粉が飛んでくる、となると、逃げる。・・・・ ズル菅
自分では何もしていないから、説明なんか出来はしない。・・・・ アキ菅
事の進展を把握できていないから、全ての態度も空虚。・・・・ スッカラ菅

やがて、八方塞がりで、THE END ・・・・ ア菅


「選ぶ」ということから逃げ続けた生き方。
「選ばない」を「選んだ」。
本人は、責任を引き受けないための賢い生き方だと思っているだろう。

その生き方が、どの様な結末を迎えるか。
これから、私達国民は、目の当たりにすることになるだろう。

  一日も早く、重要な地位から退いて欲しいものである。

タグ:選ぶ

就活、面接をすっぽかしてどうする [仕事に就くために]

新卒の就職活動が厳しいと報道されている。
リクルート・スーツに身を包んだ学生が、テレビの画面で、
何十社受けても駄目でした、という発言をしている。
しかし、ネットでのエントリーが一般化したためだろうか、
学生の希望が大手企業に集中しており、
求人に意欲的な中小企業では応募にも至らない、という。
有効求人倍率は、
1000人以上の大手では、0.57だが、300人以下の中小企業では、4.5とか。

このミスマッチを解消する一助にと、
2泊3日で中小企業9社を訪問するバスツアーが企画された、というテレビ報道。
宿舎でもミーティングが行われたとは言え、
バスの中で、「疲れた」とあくびをする姿に、体力の無さを感じたものだが、
面接を受けてみようと、ある企業に履歴書を提出した2人が、
当日、2人とも連絡一つしないで、面接をすっぽかした、という経過に驚いた。

ドタキャンではない。
ドタキャンは、土壇場でキャンセルするということ。
つまり、直前に取り消しの通知をする、ということである。
待ちぼうけを食わす、というレベルとは異なる。

就職活動で、面接を申し込んでおいて、待ちぼうけを食わす、とはどういうことか。
これでは、内定率が低迷しても仕方が無い。

一度でも、アポイントのすっぽ抜かしをしたことがある人は、就職活動を止めた方がよい。
就職は不可能である。
仮に就職できても、仕事を続けることは出来ない。
仕事だけではない。人との関係も築けないだろう。
  自分のことしか考えない人間。
  相手の気持ちを考えることも出来ない。
そんな人間に社会参加は無理なのである。

面接だけでは無い。
説明会やセミナーなどでも、人数に制限があったりして、前もって申し込みが必要な場面で、
連絡なしに欠席する、というのは、キャンセル待ちの人のチャンスを奪うことにもなるのである。

来るはずの人間が来ない。
始めは、道に迷ったか交通のトラブルか、或いは事故にでも遭ったのでは、
と心配しながらも、結果が無断の欠席だと判明すれば、その時点で、
  この大学は、この学生は、とマイナスの記録を残すことになる。

OB・OG訪問、と称して、
同じ大学の卒業生だと言うだけで、貴重な話をしてもらう、という支援が行われている。
そういう善意の応援に応えるためには、最低限、大学の名前を守らなければならない。
信用を傷つけてはいけないのだ。
約束を破って、連絡さえしない。
そんな勝手な行為が、校名に対して悪い評価を、企業や就活支援機関に印象付けてしまう。
結果として後輩の足を引っ張るのだ。

そんなことも、考えが及ばないようでは、仕事には就けない。
就職できても、平気で無断欠勤するだろう。仕事は続かないのだ。


以前、派遣切りに遭った人が、仕事を求めて苦労している様子を伝える番組があった。
ハローワークの窓口で相談を繰り返し、やっと面接の約束を取り付けていた。
しかし、その日その時刻、その人は姿を現さなかった。
会社にもハローワークにも連絡は無かった、という。

二度とハローワークの支援を受けるつもりは無いのだろうか。
紹介された面接をすっぽかして、再び、どんな顔をして窓口に臨めるのだろうか。
他人事ながら残念である。


中小企業なら、まともに取組めない、というのか。
会社の規模で、真面目に取組むか軽々に放置するかを選別するのか。
相手によって態度を変えるのなら、
企業が、大学の名前で学生を区別するのを是認しなければならない。
エントリーする前に、起こりうる現実を考慮しておこう。

仕事をするとは、社会に参加すること。
約束が守れないでは、社会に参加することは出来ない。
気が進まない面接なら申し込むな。
一旦、面接日程が決まったら、どんなことをしても出向け。

つまり、出来ない約束はするな。
一旦、約束したら守れ。
  ・・・・それだけのことである。

それが出来ない、というのなら、自分自身の行動原理を考え直してみよう。
就職活動は、その後である。

タグ:約束

就職できる世界を狭めていないか [仕事に就くために]

就職氷河期ということで、新卒学生の就職内定率が伸びないと報じられている。
リクルート・スーツに身をくるみ、足を棒にして説明会に臨んでいる姿がテレビ画面に表れる。
「不況だからなぁ・・・・」と、見る者はごくごく普通の気持ちを抱く。

だけど、考えてみよう。本当に、仕事は無いのだろうか。
多数の外国人労働者が就労している。
  飲食店やコンビニで、慣れない日本語で接客する。
  介護の現場でも、ヘルパーさんは外国人。
  また、地場産業の工場や、農家の働き手として、黙々と働く。
  慣れない仕事に打ち込み、汗を流す。
仕事が厳しいから、賃金が安いから、と言って日本人は見向きもしない。
そんな分野で働き、日本の社会を支えている。

手にした金は、祖国に送る。
日本の社会に還元するのではない。
一人一人の賃金は安くても、多人数で稼いで送金する額は、祖国の経済に寄与している。

 つまり、本来なら、日本人が日本国内で稼いで消費する金が、海外に流れ出て行くのである。

 日本は輸出で稼いでいる、と言いながら、
 人的労働を外国人に依存して、結果として金を流出しているのである。

厳しいのに十分な収入にならないという仕事を忌避している日本の若者。
楽して程々の収入を得たい、という本音。

自分の可能性を試すために新天地に飛び込んでみよう、という若者らしい意気込みは何処へ行ってしまったのか。
仕事を覚えるために授業料を払うのだと考えたら、厳しくても、貴重な経験を積める機会を選び取るだろうに。

楽して程々の収入を。
そんな人材を、企業は採用するだろうか。
グローバル化の波で、世界を相手にしなければならない時代である。

市場開拓であれ、工場移転であれ、一から関係を切り開かねばならない海外での仕事に情熱を注げる人材こそが、企業のこれからを担える人材なのである。世界に目を向け、自ら世界を相手に仕事をする人間が欲しいのである。将来の幹部候補生は、グローバルな仕事が出来る人間からしか育てようが無い、と言えよう。

企業は、常に人材を求めている。
有名大学の優秀な学生を採り、学校よりも人物本位で採用し、新卒、中途入社、等々、あの手この手で人材確保に努めたことだろう。

だけど、効果が無かったのだろうか。
それとも、人数的に足りなかったのだろうか。
最近では、大手有名企業では、外国人採用枠を大幅に増やしている。
多くの国で教育環境が向上し、専門知識を習得した若者が、熱意満々で職を求めてくるのである。

海外に関係を深めたい企業と、自国の発展のために働きたい若者が、国境を越えて協力し合うことになる。
今は、そういう時代なのである。


仕事を求めて悪戦苦闘する新卒予定者。
今までは、国内の主要大学の学生が競争相手であった。
しかし、今や、国内の日常を支える仕事には出稼ぎの外国人労働者が就き、海外の未来開拓的な仕事には挑戦的な高学歴外国人が就く。
仕事を求めての競争相手は、低賃金でも働く出稼ぎ外国人や、好奇心と熱意に溢れた知的外国人にまで広がっている。
そういう現実を認識して、自分の仕事に対する姿勢を選び取らなければならないのである。

自分が何をしたいのか、では無く、自分は何が出来るのか、と問わなければならない。
自分の意欲を堂々と訴える力。
求人側が求めている力とは、そういう道を切り開く説得力ではないだろうか。
身近な仕事も、世界相手の仕事も、目標への意欲から始まるのである。


今まで、意欲から、どんな能力を獲得してきたか。
これからの人生を、どんな意欲で進もうとしているのか。
これまでの実績とこれからの展望がきっちりと整理されている人間こそが、求められる人材だと思うのである。

男性が仕事に就き難いわけ [仕事に就くために]

ホームレスの人は男性が多い。
年末の派遣村のニュースでも、生活保護の報道でも、やっぱり男性が多い。
派遣切りに遭った人も、テレビの画面に出てくるのは男性だ。

女性も無い訳では無いだろうが、実際に目にするのは男性。

近年までは、女性が働くのが困難だから、家庭に留まるとか、
女子大卒では、就職に不利で涙を流していた。

何が変化したのだろうか。

経済のサービス化、だろう。


農林水産業の第一次産業、
工業の第二次産業、
そして、サービス業の第三次産業。

自然を相手に、自然からの恵を狩猟採取する時代から、
自然を加工する、物作りの時代、
そして、人間が人間を相手にするサービスの時代。

肉体的な力を必要としないから、女性でも出来る。
むしろ、細やかな心遣いが必要となるから、女性の出番も増える。


考えてみれば、炊事、洗濯、掃除、それに子育てに介護。
全て、かつては家庭の中で提供されていた働きである。

食べ物から調理器具、肌着や衣類、ちょっとした大工道具等々、
一般家庭には、ある程度の買い置きがあり、
それを、日々使って生活する。

在庫管理、作業の段取り、緊急時の対応など、
  ある意味で、大きなマネジメントが無償で提供されていたのだ。

家事が専門職として社会化した。
ならば、女性にとっては馴染みの分野である。

だから、女性はどこかに職を得ることが出来るし、
反対に、男性は慣れない分野だけに、関わりを持ちにくい。
              ‥‥と言うことだろうか。



先ず、自分の身を保つだけの家事を遣ってみよう。
外食ばかりでなく、自炊してみよう。
買い物し、無駄なく使い切り、おいしく料理する。
使った道具や食器は、そのつど綺麗に片付ける。

毎日、それがこなせれば、マネジメントの入り口に立てる。


生活保護費が支給されたら、パチンコか飲み屋へ直行。
というのでは、まず、サービス産業の時代には通用しない。


自立の基礎は、経済的自立である。
自分で食べてゆけなければ、何も始まらない。
かつては、女性が自立するために、社会的な職業に就くことが必要だった。
今は、男性が自立するために、自分の生活を自分の手に取り戻すことが必要なのである。
自分で食べてゆけるために、先ず、自分の食事を自分で作ろう。
社会的サービスに頼るには、お金が必要だから、
金銭的な余裕が出来てから、より良いサービスを楽しもう。

人任せにしないで、生活を自分の手に取り戻そう。
上手に家事が出来れば、それが仕事に繋がってゆく。

そんな風に考えるのである。


正規雇用を考える [仕事に就くために]

仕事に就くなら、当然、正規雇用。
しかし、現実は厳しい。

高度成長の折には、自分に合った働き方を選ぶことも出来たが、
低成長、ゼロ成長の時代には、確かな身分が第一希望だろう。

身分が保証される正規雇用について考えてみよう。


かつて、就職とは、終身雇用を前提とした正規採用のことだった。
その会社の人間になる、という感覚である。
だから、会社を選び、採用試験に臨んだ。
希望先は、大手有名企業から、中堅、中小企業と、一種の序列化されており、
競争相手は、一流といわれる有名大学の学生以下、云々という訳で、
一流、二流、三流と、大学の名前で勝敗が決することも多く、
その現実が、大学入試の受験戦争に拍車をかけていた。

やがて、受験戦争の厳しさを緩和するためだろうか、
それとも、高い学力を有する人材を産業界に提供するためだろうか、
大学が次々と新設され、進学希望者の全入時代を迎えた。
同じ頃、大学のランクでは決定しません、という風潮が出てきたが、
それは、一流大学以外からも進んで採用する、というよりも、
一流大学出身者でも、容易に採用するとは限らない、という状況だった。

大学全入では、基礎学力が無い人間でも入れてしまう。
つまり、大卒ということが、実力を保障する機能を失った、ということである。
大卒人口が増大したのだから、就職率が低下するのは当然である。


  かつて、終戦後には、義務教育を終えたばかりの中卒者が、
  集団就職として都会に出て、紡績工場や町工場に就職した。
  昼間は働き、夜、学ぶ。夜間高校がその役割を担った。

  その内、高校を卒業してから就職するようになり、
  商業高校や工業高校で学んだ若者が、
  企業の事務職や、もの作りの第一線で働いた。

  更に、より一層の学力が必要になり、大卒を求めるようになった。
  定型業務ではなく、創意工夫が仕事の中心になったからである。

さて、全入時代の大卒者が、この要望に応えられたのだろうか。

国内で補充できなければ、海外・・・・、ということになる。
市場規模も、世界を相手にする時代になった。

どんな時代でも、
   経済の底辺を支える仕事があり、
   経済の先頭を切り開いて行く仕事がある。
   そして、多くはその中間に位置する仕事である。

かつて集団就職した若者が担った仕事を、今は、外国人労働者が担い、
事務職や組立工は、コンピュータやロボットに仕事の多くを任せることになった。
残されたのは、創意工夫で経済の先頭を切り開いて行く仕事だけである。

新卒であろうと、そうで無かろうと、
求職者にとって、働くということの土俵が大きく変化したのである。

経済の環境が、国内だけの労働市場で決定できる時代ではなく、
世界を相手に企業の将来を考えなくてはならない時代に移ったのだ。


そういう訳で、
  仕事を求める若者が考えておくことは、次の様なものであろう。

1.グローバリゼーションの下、職を求めての競争が大きく変わった。
    海外の若者が、国境を越えて低賃金で仕事をしに来る。
    その仕事を、同じ低賃金で引き受けることが出来るか。
    自分の人生設計の中に、投資期間、学びの期間として位置づけられるか。
      (金を得るために働くのでなく、仕事を覚えるために働くと考えて)。

2.定年退職者が働き続けている。
    元気な高齢者が、経験を生かして仕事を続けている。
    高齢者の実績に対抗できるだけの、若者としての可能性をアピールできるか。

3.うつ病が増えている。
    従来は、周囲への気遣いから欝に至ることが多かったが、最近は違ってきている。
    休職中でも、出社は出来ないが、遊びに出かけることは出来る、という状態である。
    精神性が未熟なままでは、好きなことしか出来ない、ということになる。
      好きなことしかしない、という生き方が通用するのか、という問いである。


この様に、
  仕事を求める人間にとって、今の時代は多くの問いを発している。
    自分の人生を、どの様な準備と、どの様な実りを目指して切り開いて行くか。
    人生の山や谷を、どの程度の覚悟で乗り越えて行くのか。

厳しい道のりの先にしか、満足のゆく成果は実現できない、という認識が出来るか。
    どんな厳しさなら受け入れることが出来るのか。
    人生で絶対に譲れない、というのはどんな事か、等々。

   つまりは、自分は、どういう価値観を基本に生きてゆくのか、を自問自答する。
   それが、原点ではないだろうか。


企業が求めている人材、つまり、正規雇用で迎えようとしている人材とは、
   創意工夫で経済の先頭を切り開いて行く仕事、の担い手であり、
   創意工夫で経済の先頭を切り開いて行く仕事、に突き進む熱意を示せる人。

  それは、自分の人生設計と価値観を、明確に言語化して示せる人、のことである。
     自分の人生設計が出来ないで、企業の将来設計が出来るか。
     自分の価値観を言語化できないで、企業の経営方針を策定できるか。

このような視線で、
   企業は将来の担い手、つまり正規雇用の人材を選別している、と思うのである。

経営者の立場で考える [仕事に就くために]

多くの人が仕事を求めて苦闘している。

世の中、相手の人に認めてもらおうと思ったら、相手の立場で考える。
商売は顧客の立場で考える。
小さな集まりでも、仲間の立場で考える。

ならば、仕事を求める場合も、仕事を与える人の立場で考えよう。
担当者が取り仕切る場合でも、基本方針は経営者が決める。
経営者が示す目線で選び、最終的にはトップの判断で決まる。


求職のための指南書や、各種のセミナーが巷に溢れている。
確かに、勉強になる、役に立つ、ということが多々述べられているだろう。
しかし、忘れてはならない。
   これらもまた、相手、つまり求職者の立場に立って、企画し提供されているのだ。
求職者の心理、つまり、不安、競争心、自信の無さ、などが考慮されている。
こういう物を提供すれば売れる、という訳だ。

顧客である求職者が求めるもの、それが売り物である。

求職者を選別し、採用を決定する経営者の求めているもの、ではない。


求職者に求められるのは、経営者が求める資質である。

経営者が何を求めているのか、を考えねばならない。
第一が、世の中で通用するために、相手の立場で考える、という資質である。

就職できたら、常に一つ上の立場で考えねばならない。
与えられた仕事を果たす中で、上司の目線で考える力を養う。
課の一員なら課長の立場、課長なら部長の立場、という一歩先の目線である。
会社全体を見渡し、経営者の立場のむこうに顧客が居る、というイメージである。
  実際には、担当者それぞれが顧客に接しているかも知れない。
  しかし、自分が企業の一員であり、リーダーである経営者の下で役割を担っている、
  というチームワークの連帯感が、社外に対しても、社内に対しても行動を決定する。
経営者が求めるものを、自分自身で考えよう。
どの経営者も求めるもの、各々の企業、業界、職種で求められるもの。
普遍的な要求、個別的な要求、それぞれを自分なりに考える。

そして、これは応えることができる、というポイントは、はっきりと主張しよう。
これは必要だけど、まだ足りない、というポイントは学び、獲得しよう。
  この場合に、指南書やセミナーが役に立つ。
  自分に必要なものを、しっかり選んで積極的に取り組もう。
獲得した力は、努力した道のりも含めて、堂々と主張するのだ。

本来の自分に備わっていた能力と、新しく獲得した能力。
それらを区別しながら主張することが、経営者の求める資質、である。
  在るがままの自分をしっかり理解して、人に説明できる。
  自分に必要な目標を設定することが出来る。
  目標に向けて、必要な手段(指南書やセミナー)を探し出し、
  目標に到達する努力をして、それを実現する。

いま居る足元をしっかり確認し、向かうべき方向に歩き、到達点に至る。
目は、一歩先を見ており、足は、自分の歩幅で体を前に進める。

  目が足元を見ているだけ、では何処へも進むことは出来ない。

自分の二本足で立つ、というのが全ての始まりである。
就職戦線で、求人側のトップが求めているものは何か?
相手の立場で考えてみよう。
就職して数年後に採用担当者になったら、どんな視線を持つか。
将来、自分が経営者になったら、どんな人材を望むか。
  そう、自分が求めるであろう人物像に、自分を育て上げよう。
自分で自分を育てる。
将来、人の上に立ったら、部下を育てなければならない。
部下を育てる力は、自分を育ててみれば分かる。

指南書やセミナーに、自分の人生を任せるのは、賢明ではない。
こう言われたから、こう教わったから、という従属的な姿勢では、
  決して経営者の求めには応じられない。
これが必要だと思ったから学びました、という独立的な姿勢が、
  これからも進歩して行く人材として、評価を受けるのである。

経営者が求めている資質とは何か、を自分で考える。
相手の立場で考える、とは想像力を磨くこと。
人の意見を参考にしたり、そこから得た思考を主張することは言葉を磨くこと。
何よりも、
  何が求められているのか、と問う視線こそがリーダーに求められる原点なのだ。
経営者は、時代が求めているものは何か、と問い続けているのだから。


文章を上手にまとめる方法、面接を上手くこなす方法。
そんな関心の持ち方では、自分を売り込むことは難しい、と思うのである。

タグ:経営者

自分を知る/感情を温める [仕事に就くために]

自分の今までを振り返り、色んな出来事を書き出してきた。
書くという行為は、事実を言葉に置き換える、と言うことである。
言葉に置き換える作業が、事実を確かめる、という働きを促している。

自分の人生の節々を、
   ① 事実として確かめることが出来、
   ② 言葉にして記憶に納めることが可能となった。

ここで、山場を迎える。
人として一番大切なこと、= 気持ちを大切に受け入れる、のである。

それぞれの記憶は、感情と共に思い出される。
善し悪しは別にして、人生を彩っている感情を、そっと抱きかかえてみよう。

  やった!  という記憶は、感情と向き合うことで、もっと温かくなれる。

反対に、残念な記憶、悔しい記憶は、そっと包み込むことで、
  かつての自分を許容し、新しい自分への一歩をそっと導いてくれる。


今までの自分を言語化してみたのは、自分を受け入れるためだった、のである。

自分を受け入れる、と簡単にいう人も居る。
しかし、受け入れる自分の姿がはっきりしなければ、幻を相手にすることになる。
在りのままの自分をしっかり自覚して、つまり、言語化して、
そして、今までの自分の全てを、ゆっくりと、温かく、そっと受け入れるのである。

  辛かったなぁ、しんどかったなぁ、悔しかったなぁ、悲しかったなぁ、・・・・

こんなことがあった、と言語化できた時点で、もう、向き合う力は得ているのだ。
あの時は・・・・、というように、かつての自分を、静かに、丁寧に包んでやろう。
そう、今はもう、あの時ではないのだ。
かつての自分を、今の自分が包み温めることで、自分の成長が実感できるだろう。

自分が悪かったとか、ああすれば良かったとか、考えるのは止そう。
なぜ、どうして、という後悔も横に置いておこう。  (別の機会の仕事だ)
兎に角、正直に、在りのままの あの時の気持ち を、黙って抱きしめよう。

小さな子供が、怯えて泣いていたら、しっかりと抱きしめてやるだろう。
かつての小さな子供、怯えて泣いていた子供である自分を、しっかりと抱きしめよう。
もう怖がらなくて良いからね、と耳元で言い聞かせよう。



かつての自分の気持ちを、今の自分が優しく受け止めることが出来れば、
これからの、どんな気持ちも、その後で自分自身で癒すことが出来る、のである。
そして、その自分の経験を受け入れ、温める力は、
  自分自身が、時と共に成長している、という実感となり、自信になる。

自分の感情から目を背ける必要が無くなれば、
  周囲の人に対しても、寛容な接し方が出来るようになる。
人に優しくしなさい、なんて口で言うだけでは無理なのだ。
自分自身に優しく為れなければ、人に優しくなんて出来ないのだから。

在りのままの自分の感情を、まっすぐに、優しく温かく包み込もう。
在りのままの自分と真っ直ぐに向き合う習慣が出来れば、
  どんな面接だって、在りのままの自分を正直に見せることが出来る。
隠す必要が無いから、面接場面でも素直に対応できる。
知らないことは知らない。
出来ないことは出来ない。
だけど、知る努力、出来るようになる努力は惜しまない、と主張すればよい。


コミュニケーション能力、と言うのは、上手に言葉を並べることではない。
自分の本音を述べて、相手の本音を引き出す、という能力。
そんな風に考えれば、
   自分自身の感情と向き合える人間だけに出来ること、では無いだろうか。


自分を知る、とは、自分の感情を知り、その感情を大切に扱えること。
かつての感情を見つめる、という時、今の感情は静かで温かい。
瞬間、瞬間の感情が、大きな流れとして気持ちを彩る。
自分の人生を歩いた足跡のように、
  事実としての経験を手がかりに、感情と冷静に向き合う力を養おう。


感情とは、ある場面で、瞬間に沸き起こる反応である。
  動物としての生存本能が、危険に近寄るな、と教える様な働き、と言える。

これに対して、気持ち、という時は、内面から湧き上がる実感が伴う。
そんな風に、言葉を使い分けて考えてみると、次のように表現できそうである。

  感情で泣いている子供を、大人の冷静な気持ちで温めてやる、と。



・・・・ 余談: ゆっくりと前に進もう ・・・・

人は何歳になっても子供である。
より成長するために、自分自身を温かく見守ろうではないか。
かつての自分を振り返る時には、少し大人になった今の自分を頼りにしよう。
今日の自分を持て余したら、明日の自分に期待しよう。

  時間が癒してくれる、と昔の人は言いました。

そう、時間を信じて、今日出来ないことは、ちょっと横に置いておこう。
今日は、今日出来ることから取り組もう。
そうしている内に、かつて出来なかったことが、出来るようになっている。
歳をとるのも良いもんだ、なんて気持ちになれたら、生きるのも楽になる。

昨日よりも今日、が無理なら、去年より今年。
去年の今頃の自分と、今の自分を比べてみれば、1年間の成長が見える。
どんなに小さいことでも良いから、成長の証を見付けよう。
1年が無理なら、2年だって、3年だって、人それぞれでOK.
兎に角、諦めないで、在りのままの自分を温かく認めよう。
自分自身を諦めない限り、温められた身体は成長するのである。
  小さい一歩、一歩を続けよう。

自分を知る/言語化する:まとめ [仕事に就くために]

自分を知るために言語化する、ということを考えてみた。
第一歩として、自分の選択の仕方を振り返り、意志の働き方を確かめた。
次の歩として、周囲の人からの視線を頼りに、客観的な自分を見直してみた。

自分の自主的な判断と、周囲からの見え方という二面的な捉え方を、
  思い付くままに、書き出してみましょう、・・・・ ということだった。

書く、というのは、言葉に置き換えることである。
ただ何となく、そんな感じ、というような想いを、そのままに言葉にする。
まとめようとか、順番とかを考えないで、ただただ、思いつくままに、である。
あっちへ跳び、こっちへ跳び、と乱雑に書きなぐったとしても、全ては自分のこと。
後から見直してみたら、乱雑な書きなぐりの中に、自分の姿が見えてくる。

  ① 自分が大切にしていること。
  ② 自分の人生を特徴付けていること。

①を頼りに、「こういう仕事がしたい」
②を頼りに、「こういう仕事が出来ます」
 というようにまとめてみよう。




ここで簡単に考えてみると、
言語化するための、第一歩(自己選択)と、次の歩(他者評価)は、
小・中・高、と学んできた中で、繰り返し体験しているのである。

・・・・ 自己選択 ・・・・
宿題や予習・復習をどの様にこなしてきたか。
友達と遊びたい、テレビやゲームも気になる。
毎日の下校後の時間は、限られている。
そんな中で、自分の時間をどの様に使ったか。

また、夏休みなどの長期の日々が自由になる時期はどうか。
宿題だって、どれをどれだけ、どんな順番で片付けたか。
どんな時間配分をしたか。
朝、勉強して、昼からはプールとか。
宿題だけでなく、苦手科目に力を入れてみたり、
反対に、得意科目の難題に挑戦してみたり。
それなりに自分と向き合って、決めて行動した、ということになる。
クラブ活動やアルバイト、旅行も計画の重要部分だったはずだ。

・・・・ 他者評価 ・・・・
そして、学校からは成績を受取る。
好きな科目、得意な科目。
普通は、好きな科目は、得意な科目と一致する。
好きだけど、得意ではない科目の場合には、
  思い切って次のハードルに挑戦してみれば、得意科目になる。
  好きな科目なら、どんどん上のレベルを目指してみよう。

好きではないけど、得意(成績は良い)という場合には、
  そこに、自分の潜在能力が眠っているかも知れない。
  意識して努力している訳でもないのに評価されているのだ。
  どういう面が、良い成績を取っているのか、具体的に考えてみよう。
  自分の適性が自然に活かされている、・・・・その適正を見付けよう。

クラスや学年での順位ではなく、自分自身の成績だけを見て行こう。
人と比較するのではなく、自分の中で、何が好きか、何が得意か、と。

世の中が変われば、評価の基準も変わる。
成績順位ではなく、成績内容をしっかり自己分析しよう。
自分の成績がどの様に変化したか、その時は、どんな勉強をしたか。
頑張った結果、サボった結果、・・・・自分では分かるはずである。
どうして頑張れたのか、どうして手を抜いてサボったのか。
その時その時の自分の気持ちを確かめてみよう。

自分にとっての、適/不適を見つけ出そう。
  



・・・・ 自分の今までを振り返って、書きなぐりによって言語化を進める。

この作業を実際に遣ってみた人には、学校生活の振り返りは簡単であろう。
漠然としていた学校生活の記憶を、しっかりと自分の言葉に置き換えておこう。
  得意な科目は何でしたか? と問われたら、はっきりと答えられる様に。
  どう得意だったの? と質問が続いても、落ち着いて答えられる様に。

自分を知らなければ、自分を知ってもらうことは出来ない。
自分を知ってもらうために、自分を知り、しっかりと言葉にして伝えよう。
そのための準備、・・・・丁寧に自分と向き合っておきたいものである。

タグ:就職 言葉 知己

自分を知る/言語化する:次の歩 [仕事に就くために]

言語化の第一歩として、最終学校に関する選択行為を見直した。
言語化の次の歩として、ここでは生い立ち全体を見直してみよう。

一言で言えば、「こんなことも有ったなぁ」、という出来事のこと。
周囲の大人に褒めてもらったこと。
  両親をはじめ、幼稚園や保育園、小学校や中学校などの先生、
  或いは、近所の人や、お稽古事に通っていた先の先生など。
または、賞を貰ったこと。
  運動会や何らかの競技会で、自慢できる成績を残した。
  展覧会や発表会で、入賞した、というような体験。

絵が上手だね、と褒めてもらって嬉しかった。
○○のことをよく知っているね、と感心されて嬉しかった。
  もっと上手になろう、もっと詳しく知ろう、という意欲がわいた。
  その努力を褒めてもらって、益々、嬉しくなった。

そんな体験を、思い付くままに書き出してみよう。

それが、以前に書いた「嬉しかったこと」に通じていれば、
   そこに、自分の居場所が存在する。
無理なく自分を活かせる、自分に最も相応しい活動の場が在る。

自分が心動かされたのは、どんな側面に関してだったのか。
絵が好きだったとしても、
   観察するのが好きだったのか、
   構図なのか、色彩なのか、描き方だったのか、
   或いは、自分の絵を人に見てもらうのが嬉しかったのか、等々。
表面的な事に限らないで、その奥の、気持ちの向いた先を見つめよう。

対象をじっと見つめて、そのままの姿を描くのが好きだったのなら、
   写実画家だけでなく、科学者や報道記者など、観察眼を活かす道。
絵を見て喜んでくれる人が好きだったのなら、
   美しい物や、人の役に立つ物作り、或いは、サービス業全般。

そんな、広大な地平での自分の能力の活動範囲を考えてみよう。

走るのが好きだった、泳ぐのが好きだった、でも良いのだ。
体を動かす爽快感を大切にするのなら、忙しい仕事だって体当たりできる。
時間に追われて走り回るのが苦にならない、というのは大きな強みである。
  新人として仕事に体当たりします、という自己PRが出来る。

決まりきった自己PR文ではなく、自分だけの、自分にしか書けない文章。
どんな質問を受けても、自然な受け答えに広げて行ける自己理解。
そういう、自分を知った上での文章を提出したいものである。

タグ:言葉 就職 知己
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