「好き」と「嫌い」に向き合う [ものの見方・考え方]
好き or 嫌い ・・・・
私達は、一瞬一瞬の出来事に対して、好きか嫌いかを感じ取っている。
本来なら、一呼吸おいて、冷静に判断してから行動に移る。
しかし、そういうステップを経ずして、自動的な行動も往々にして有り得る。
例えば、熱湯に触れれば、「アツッ!」、と思わず手を引っ込める。
熱いけど、どうしたら良いのか、なんて考えていては、大やけどだ。
腐ったものを口にした時だって、思わず吐き出すことだろう。
自然災害や交通事故など、身に危険が近付けば、体が反応する。
生命を守るための、「生存本能」である。
・・・・ 同様のことが、心の中でも生じる。・・・・
人は感情で生きている。好きと嫌いの世界である。
好きなものに対しては、近付こう、手に入れようとし、
嫌いなものに対しては、遠ざかろう、手放そうとする。
この反応は、立ち止まって考えるということ無しに、行動として現われる。
と言うよりも、知らず知らずの内に、人間の行動を引導する。
好きな人が出来たら、
その人に近付きたい、その人のことを知りたい、そして、その人を手に入れたい、という気持ちが働く。
その最たるものがストーカーである。
反対に、嫌いな人に対しては、
近付きたくない、遠ざかりたい、いや、遠ざけたい、と思うのである。
嫌な事があったら、その場から立ち去ろうとする。
見たくない、といって目を背ける。
人に対してだけでなく、事柄に対しても同じように反応する。
好きこそ物の上手なれ、というのは世の常識であり、
嫌なことがあれば、その場から遠ざかろうという行動になる。
引きこもり、・・・・、最も極端になると、自殺。
では、好きと嫌いに支配されないためには、どうすればよいか。
好きな場合でも、必要だと判断したら、思いとどまる。
嫌いな場合でも、必要だと判断したら、取り組む。
好きならアクセル、嫌いならブレーキ、という生存本能の反対である。
好きでも時にはブレーキ、嫌いでも時にはアクセル、という意志の働きである。
考えてみれば、
人間は、生まれてしばらくは、本能のままで保護される。
やがて、社会性の第一歩として、トイレ・トレーニングを受け、
自分の身体を健康に育むために、食事の好き嫌いを矯正され、
自分の精神を偏り無く磨くために、教科の好き嫌いに挑戦する。
食事も排泄も、時と場所をわきまえる事から、社会の文化に馴染んで行く。
義務教育までは、受身でありながらも、学ぶ、ということを学ぶ。
その後は、次第に、自分の知識獲得に責任を負うことになる。
好きな分野を伸ばすのも、嫌いな分野を克服するのも、自分次第。
好きなことを、もっと大きな目標のために諦めたことが有りますか。
嫌いなことを、大きな目標のために正面から取り組んだことが有りますか。
大きな目標、それこそが、冷静な判断による、人生設計です。
自分の在りのままを直視し、自分のなすべきことを判断して行動する、こと。
直視することを避けようとすると、
認めたくないことを否定するために、嘘をつくか、力で捩じ伏せる、という行動になり、
自分の為すべきことを判断することも、信念に基づいて行動することも出来はしない。
嘘をつく人は、やがて、力で捩じ伏せようとする態度に出るでしょう。
言葉に責任を負えない人は、言葉を放棄し、力に頼るようになるのです。
権力者はもとより、財力、・・・・、地位、腕力、・・・・。
好きなことはするが、嫌いなことはしない、というだけでは、
生存本能のままであり、それ以上の生き方には為らない。
見たくないことを直視する力、それが、「勇気」。
自分の人生、勇気を持って、真っ直ぐに見守って行きたいものです。
そして、
助けが必要な場合には、助けを求めるのも 「勇気」 なのであり、
求められた助けを提供しあえる社会を築きたいものです。
私達は、一瞬一瞬の出来事に対して、好きか嫌いかを感じ取っている。
本来なら、一呼吸おいて、冷静に判断してから行動に移る。
しかし、そういうステップを経ずして、自動的な行動も往々にして有り得る。
例えば、熱湯に触れれば、「アツッ!」、と思わず手を引っ込める。
熱いけど、どうしたら良いのか、なんて考えていては、大やけどだ。
腐ったものを口にした時だって、思わず吐き出すことだろう。
自然災害や交通事故など、身に危険が近付けば、体が反応する。
生命を守るための、「生存本能」である。
・・・・ 同様のことが、心の中でも生じる。・・・・
人は感情で生きている。好きと嫌いの世界である。
好きなものに対しては、近付こう、手に入れようとし、
嫌いなものに対しては、遠ざかろう、手放そうとする。
この反応は、立ち止まって考えるということ無しに、行動として現われる。
と言うよりも、知らず知らずの内に、人間の行動を引導する。
好きな人が出来たら、
その人に近付きたい、その人のことを知りたい、そして、その人を手に入れたい、という気持ちが働く。
その最たるものがストーカーである。
反対に、嫌いな人に対しては、
近付きたくない、遠ざかりたい、いや、遠ざけたい、と思うのである。
嫌な事があったら、その場から立ち去ろうとする。
見たくない、といって目を背ける。
人に対してだけでなく、事柄に対しても同じように反応する。
好きこそ物の上手なれ、というのは世の常識であり、
嫌なことがあれば、その場から遠ざかろうという行動になる。
引きこもり、・・・・、最も極端になると、自殺。
では、好きと嫌いに支配されないためには、どうすればよいか。
好きな場合でも、必要だと判断したら、思いとどまる。
嫌いな場合でも、必要だと判断したら、取り組む。
好きならアクセル、嫌いならブレーキ、という生存本能の反対である。
好きでも時にはブレーキ、嫌いでも時にはアクセル、という意志の働きである。
考えてみれば、
人間は、生まれてしばらくは、本能のままで保護される。
やがて、社会性の第一歩として、トイレ・トレーニングを受け、
自分の身体を健康に育むために、食事の好き嫌いを矯正され、
自分の精神を偏り無く磨くために、教科の好き嫌いに挑戦する。
食事も排泄も、時と場所をわきまえる事から、社会の文化に馴染んで行く。
義務教育までは、受身でありながらも、学ぶ、ということを学ぶ。
その後は、次第に、自分の知識獲得に責任を負うことになる。
好きな分野を伸ばすのも、嫌いな分野を克服するのも、自分次第。
好きなことを、もっと大きな目標のために諦めたことが有りますか。
嫌いなことを、大きな目標のために正面から取り組んだことが有りますか。
大きな目標、それこそが、冷静な判断による、人生設計です。
自分の在りのままを直視し、自分のなすべきことを判断して行動する、こと。
直視することを避けようとすると、
認めたくないことを否定するために、嘘をつくか、力で捩じ伏せる、という行動になり、
自分の為すべきことを判断することも、信念に基づいて行動することも出来はしない。
嘘をつく人は、やがて、力で捩じ伏せようとする態度に出るでしょう。
言葉に責任を負えない人は、言葉を放棄し、力に頼るようになるのです。
権力者はもとより、財力、・・・・、地位、腕力、・・・・。
好きなことはするが、嫌いなことはしない、というだけでは、
生存本能のままであり、それ以上の生き方には為らない。
見たくないことを直視する力、それが、「勇気」。
自分の人生、勇気を持って、真っ直ぐに見守って行きたいものです。
そして、
助けが必要な場合には、助けを求めるのも 「勇気」 なのであり、
求められた助けを提供しあえる社会を築きたいものです。
タグ:勇気
2010-07-10 04:08
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