就活、面接をすっぽかしてどうする [仕事に就くために]

新卒の就職活動が厳しいと報道されている。
リクルート・スーツに身を包んだ学生が、テレビの画面で、
何十社受けても駄目でした、という発言をしている。
しかし、ネットでのエントリーが一般化したためだろうか、
学生の希望が大手企業に集中しており、
求人に意欲的な中小企業では応募にも至らない、という。
有効求人倍率は、
1000人以上の大手では、0.57だが、300人以下の中小企業では、4.5とか。

このミスマッチを解消する一助にと、
2泊3日で中小企業9社を訪問するバスツアーが企画された、というテレビ報道。
宿舎でもミーティングが行われたとは言え、
バスの中で、「疲れた」とあくびをする姿に、体力の無さを感じたものだが、
面接を受けてみようと、ある企業に履歴書を提出した2人が、
当日、2人とも連絡一つしないで、面接をすっぽかした、という経過に驚いた。

ドタキャンではない。
ドタキャンは、土壇場でキャンセルするということ。
つまり、直前に取り消しの通知をする、ということである。
待ちぼうけを食わす、というレベルとは異なる。

就職活動で、面接を申し込んでおいて、待ちぼうけを食わす、とはどういうことか。
これでは、内定率が低迷しても仕方が無い。

一度でも、アポイントのすっぽ抜かしをしたことがある人は、就職活動を止めた方がよい。
就職は不可能である。
仮に就職できても、仕事を続けることは出来ない。
仕事だけではない。人との関係も築けないだろう。
  自分のことしか考えない人間。
  相手の気持ちを考えることも出来ない。
そんな人間に社会参加は無理なのである。

面接だけでは無い。
説明会やセミナーなどでも、人数に制限があったりして、前もって申し込みが必要な場面で、
連絡なしに欠席する、というのは、キャンセル待ちの人のチャンスを奪うことにもなるのである。

来るはずの人間が来ない。
始めは、道に迷ったか交通のトラブルか、或いは事故にでも遭ったのでは、
と心配しながらも、結果が無断の欠席だと判明すれば、その時点で、
  この大学は、この学生は、とマイナスの記録を残すことになる。

OB・OG訪問、と称して、
同じ大学の卒業生だと言うだけで、貴重な話をしてもらう、という支援が行われている。
そういう善意の応援に応えるためには、最低限、大学の名前を守らなければならない。
信用を傷つけてはいけないのだ。
約束を破って、連絡さえしない。
そんな勝手な行為が、校名に対して悪い評価を、企業や就活支援機関に印象付けてしまう。
結果として後輩の足を引っ張るのだ。

そんなことも、考えが及ばないようでは、仕事には就けない。
就職できても、平気で無断欠勤するだろう。仕事は続かないのだ。


以前、派遣切りに遭った人が、仕事を求めて苦労している様子を伝える番組があった。
ハローワークの窓口で相談を繰り返し、やっと面接の約束を取り付けていた。
しかし、その日その時刻、その人は姿を現さなかった。
会社にもハローワークにも連絡は無かった、という。

二度とハローワークの支援を受けるつもりは無いのだろうか。
紹介された面接をすっぽかして、再び、どんな顔をして窓口に臨めるのだろうか。
他人事ながら残念である。


中小企業なら、まともに取組めない、というのか。
会社の規模で、真面目に取組むか軽々に放置するかを選別するのか。
相手によって態度を変えるのなら、
企業が、大学の名前で学生を区別するのを是認しなければならない。
エントリーする前に、起こりうる現実を考慮しておこう。

仕事をするとは、社会に参加すること。
約束が守れないでは、社会に参加することは出来ない。
気が進まない面接なら申し込むな。
一旦、面接日程が決まったら、どんなことをしても出向け。

つまり、出来ない約束はするな。
一旦、約束したら守れ。
  ・・・・それだけのことである。

それが出来ない、というのなら、自分自身の行動原理を考え直してみよう。
就職活動は、その後である。

タグ:約束

日本の2012年問題 [ものの見方・考え方]

団塊世代の定年退職に備えて、いろんな職場で人材確保が図られた。
2007年問題と言われ、企業の採用計画に、それなりの影響を及ぼした。
その波が、次の波を起こそうとしている。
多数の雇用者が、60歳で退職し、65歳で年金族となる。
大量の年金受給者が発生し、年金の積立金が取り崩され始めるのだ。

長年、年金の払い込みを通じて、基金の資産を増やしてきた世代が、
どっと、取り崩しの側に回る。
学年としては、1947年4月生まれの人からが団塊の世代になるが、
45年8月に戦争が終わって、兵役から解放された人達が家庭を持ち始めたのだから、
46年から出生率が上がったことは容易に想像できる。
その人達が、65歳になるのが今年、2011年後半である。

この世代の人達への年金支払額が、どれくらいに上るのか。
財政に及ぼす影響はどうか。

膨大な財政赤字を抱える日本。
現在、国と地方の長期債務残高は、850兆円を超え、何時、破産するのかと心配されている。
他国と違って、外国人が支えているのではなく、
日本人が買い支えているから大丈夫だ、という人も居るが、そうだろうか。
支えている日本人とは、年金と郵貯のこと。
国民の積み立てた年金資金と、郵便貯金の預入金が、国債を買い支えている2本柱である。

その年金基金が取り崩しの時期に入るのである。
大きな影響を及ぼすだろう。

1年前、鳩山政権下で金融大臣(郵政担当)の亀井氏が、
郵貯の預け入れ限度額を、1000万円から、一挙に2000万円に増額する案を発表した。
国会を通過することにはならなかったが、これは、
  年金の取り崩しを補うためにも、郵貯の預金残高を増やしておかねばならない、
という状況を物語っている。
実際には、郵貯の残高も、年々減っている。
あまりの低金利に、預金者は預金を取り崩して他の投資に向けているのである。
多くが海外の高金利に向かっている。
国債の利払いを避けるために、ゼロ金利を続け、
国民の貯蓄意識に応えることを怠ってきたツケ、と言えよう。

年金も郵貯も、何時までも国債を引き受けられる訳ではない。
ある日、国債が売れ残る、つまり、完売できなかったらどうなるか。
債権が売れなければ、金利を上げるしかない。
金利が上がったら、利払いで国家予算は吹っ飛ぶ。
そういう時限爆弾の上で、今の日本は国を経営しているのである。
37兆円の税収しかないのに、92兆円の予算を国会に提出する現政権。
借金の上積みに、余りにも無神経すぎる。


 さて、私達は、どのように備えるべきか。


仕事を探している人は、
求職活動の土俵が、一瞬にして様変わりする事態も想定しておいた方がよい。
山積みの国債や地方債を前に、公務員の給与カットやリストラも、現実のものになる。
様々の社会支援(生活保護等)も維持は不可能となる。
文化生活は、原始生活に戻るのである。
公の支援で生きるのではなく、私の自助で生きてゆくのである。

出来れば、どんな仕事でもよいから、職に就いておきたい。
給料が安くても、仕事が厳しくても、職場の人とのつながりが有る、
というだけでも、孤立の中で不安に取り巻かれるよりも良いのではないか。
信用できる人が身近に居る、という状況だけでも用意しておきたい。
誠実に仕事に取り組み、信用される人間になっておきたい。
支えあえる言葉を交わせる場が、イザという時の拠り所になる。

資本主義の原点。金(仕事)を縁にして繋がりあう、とでも言えよう。
  要領よく金を稼ぐのに腐心するよりも、
  丁寧な仕事をして、人間としての信用を築いてゆきたいものである。
資本主義の原点は信用だ、と考えるのだが、どうだろうか。

タグ:信用 年金 国債

就職できる世界を狭めていないか [仕事に就くために]

就職氷河期ということで、新卒学生の就職内定率が伸びないと報じられている。
リクルート・スーツに身をくるみ、足を棒にして説明会に臨んでいる姿がテレビ画面に表れる。
「不況だからなぁ・・・・」と、見る者はごくごく普通の気持ちを抱く。

だけど、考えてみよう。本当に、仕事は無いのだろうか。
多数の外国人労働者が就労している。
  飲食店やコンビニで、慣れない日本語で接客する。
  介護の現場でも、ヘルパーさんは外国人。
  また、地場産業の工場や、農家の働き手として、黙々と働く。
  慣れない仕事に打ち込み、汗を流す。
仕事が厳しいから、賃金が安いから、と言って日本人は見向きもしない。
そんな分野で働き、日本の社会を支えている。

手にした金は、祖国に送る。
日本の社会に還元するのではない。
一人一人の賃金は安くても、多人数で稼いで送金する額は、祖国の経済に寄与している。

 つまり、本来なら、日本人が日本国内で稼いで消費する金が、海外に流れ出て行くのである。

 日本は輸出で稼いでいる、と言いながら、
 人的労働を外国人に依存して、結果として金を流出しているのである。

厳しいのに十分な収入にならないという仕事を忌避している日本の若者。
楽して程々の収入を得たい、という本音。

自分の可能性を試すために新天地に飛び込んでみよう、という若者らしい意気込みは何処へ行ってしまったのか。
仕事を覚えるために授業料を払うのだと考えたら、厳しくても、貴重な経験を積める機会を選び取るだろうに。

楽して程々の収入を。
そんな人材を、企業は採用するだろうか。
グローバル化の波で、世界を相手にしなければならない時代である。

市場開拓であれ、工場移転であれ、一から関係を切り開かねばならない海外での仕事に情熱を注げる人材こそが、企業のこれからを担える人材なのである。世界に目を向け、自ら世界を相手に仕事をする人間が欲しいのである。将来の幹部候補生は、グローバルな仕事が出来る人間からしか育てようが無い、と言えよう。

企業は、常に人材を求めている。
有名大学の優秀な学生を採り、学校よりも人物本位で採用し、新卒、中途入社、等々、あの手この手で人材確保に努めたことだろう。

だけど、効果が無かったのだろうか。
それとも、人数的に足りなかったのだろうか。
最近では、大手有名企業では、外国人採用枠を大幅に増やしている。
多くの国で教育環境が向上し、専門知識を習得した若者が、熱意満々で職を求めてくるのである。

海外に関係を深めたい企業と、自国の発展のために働きたい若者が、国境を越えて協力し合うことになる。
今は、そういう時代なのである。


仕事を求めて悪戦苦闘する新卒予定者。
今までは、国内の主要大学の学生が競争相手であった。
しかし、今や、国内の日常を支える仕事には出稼ぎの外国人労働者が就き、海外の未来開拓的な仕事には挑戦的な高学歴外国人が就く。
仕事を求めての競争相手は、低賃金でも働く出稼ぎ外国人や、好奇心と熱意に溢れた知的外国人にまで広がっている。
そういう現実を認識して、自分の仕事に対する姿勢を選び取らなければならないのである。

自分が何をしたいのか、では無く、自分は何が出来るのか、と問わなければならない。
自分の意欲を堂々と訴える力。
求人側が求めている力とは、そういう道を切り開く説得力ではないだろうか。
身近な仕事も、世界相手の仕事も、目標への意欲から始まるのである。


今まで、意欲から、どんな能力を獲得してきたか。
これからの人生を、どんな意欲で進もうとしているのか。
これまでの実績とこれからの展望がきっちりと整理されている人間こそが、求められる人材だと思うのである。

男性が仕事に就き難いわけ [仕事に就くために]

ホームレスの人は男性が多い。
年末の派遣村のニュースでも、生活保護の報道でも、やっぱり男性が多い。
派遣切りに遭った人も、テレビの画面に出てくるのは男性だ。

女性も無い訳では無いだろうが、実際に目にするのは男性。

近年までは、女性が働くのが困難だから、家庭に留まるとか、
女子大卒では、就職に不利で涙を流していた。

何が変化したのだろうか。

経済のサービス化、だろう。


農林水産業の第一次産業、
工業の第二次産業、
そして、サービス業の第三次産業。

自然を相手に、自然からの恵を狩猟採取する時代から、
自然を加工する、物作りの時代、
そして、人間が人間を相手にするサービスの時代。

肉体的な力を必要としないから、女性でも出来る。
むしろ、細やかな心遣いが必要となるから、女性の出番も増える。


考えてみれば、炊事、洗濯、掃除、それに子育てに介護。
全て、かつては家庭の中で提供されていた働きである。

食べ物から調理器具、肌着や衣類、ちょっとした大工道具等々、
一般家庭には、ある程度の買い置きがあり、
それを、日々使って生活する。

在庫管理、作業の段取り、緊急時の対応など、
  ある意味で、大きなマネジメントが無償で提供されていたのだ。

家事が専門職として社会化した。
ならば、女性にとっては馴染みの分野である。

だから、女性はどこかに職を得ることが出来るし、
反対に、男性は慣れない分野だけに、関わりを持ちにくい。
              ‥‥と言うことだろうか。



先ず、自分の身を保つだけの家事を遣ってみよう。
外食ばかりでなく、自炊してみよう。
買い物し、無駄なく使い切り、おいしく料理する。
使った道具や食器は、そのつど綺麗に片付ける。

毎日、それがこなせれば、マネジメントの入り口に立てる。


生活保護費が支給されたら、パチンコか飲み屋へ直行。
というのでは、まず、サービス産業の時代には通用しない。


自立の基礎は、経済的自立である。
自分で食べてゆけなければ、何も始まらない。
かつては、女性が自立するために、社会的な職業に就くことが必要だった。
今は、男性が自立するために、自分の生活を自分の手に取り戻すことが必要なのである。
自分で食べてゆけるために、先ず、自分の食事を自分で作ろう。
社会的サービスに頼るには、お金が必要だから、
金銭的な余裕が出来てから、より良いサービスを楽しもう。

人任せにしないで、生活を自分の手に取り戻そう。
上手に家事が出来れば、それが仕事に繋がってゆく。

そんな風に考えるのである。


次の時代に必要とされる能力 [これからの仕事]

明治時代の近代化、戦後の高度成長。
世界に類を見ない <経済の発展> を可能にしたのは、
  庶民の文化度、つまり、「読み書きそろばん」、の能力であった。

文字が読めれば、本を読むことが出来る。
文字が書ければ、人に伝えたいことを書き記すことが出来る。
 目の前に居る人ではなく、場所や時間、時代を異にする人との出会いが可能になる。

そろばん、つまり、数字を管理し、計算することが経営に繋がる。

人を間接管理できれば、支店を出し、関連機関との契約が出来る。

明治になってからの初等教育の整備。
江戸時代の寺子屋。
  そんな、庶民が学ぶ機会が、文盲率を低く抑え、情報の共有を促した。


この情報の共有が、これからの時代の焦点になる。
コンピュータによる広域性、速報性が広く提供され、
大量の情報を蓄積し、加工する技術も高度化している。

 人間の手の働きを高度化したのが織機であり、
 人間の足の働きを高度化したのが車であり、
 人間の頭の働きを高度化したのがコンピュータである。

コンピュータにより、あらゆる働きが取って代わられて行く。
農業も工業も、物流やサービスも通信とデータ処理に集約されて行く。

情報を有効に扱える能力
これが、これからの基本能力である。

人の話を聴き、自分の考えをまとめ、それを伝える能力は、
コミュニケーション能力といわれるものだが、
この言語能力も情報能力の一形態である。

しかし、情報能力で最も重要なのは、事実を確認する能力である。
  情報に支配され、振り回されないための賢明さ、とでも言えよう。
情報を検証し、確かめる能力と、そのための時間と労力を惜しまない努力。
  元になるデータの出所を確かめる。
  多様なデータを広く見渡して整合性を確かめる。
人物や組織の信用性を、批判的に検証することも必要である。
  人が発する言葉や行動を、冷静に観察して情報として蓄積する。
  誰が、どんな時に発した情報なのかを、正確に記憶しておこう。

コンピュータを使う能力、と言うと、
ワードやエクセルが使えること、と考えがちだが、
それは、筆が持てて、そろばんが使えることに過ぎないし、
今では、ペンが持てて、電卓が使えることに過ぎない。
携帯電話が使えても、インターネットが使えても、
機器を操作できることが、情報を有効に使える能力ではない。

何が自分にとって重要な情報か、それをどう守るか。
自分の経験や知識を、どの様に情報として集約して行くか。
どの様な人物や組織と、どの様に情報を共有し、どの様な関係を築くか。

さらに、これからの自分の生き方をも左右する。
今までの蓄積の上に、これからも加えて行きたい経験や知識とはどんなものか。
そのために有効に生かせる、既に自分の中に在る情報は何か。
新しい出会いとして望むのは・・・・、どんな経験や知識か。
何を知り、どのように自分の中に蓄積し、構築して行くか。
情報を組み立てて、自分の人格に育て上げる努力・・・・。


人生を前に進める、例えば、仕事に就く、というのは、
自分の中に在る情報、経験や知識の記憶に、新しいページを加えること。

  そういう情報の有効な扱いに対するチャレンジ、だと考えて、
  人生の節目を考えてみたいものである。

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