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日本の国造り [これからの仕事]

久しぶりの投稿。
日本という国自体がどうなるのか? という疑念を解くために久しく離れていた。

民主党政権下、国民の生活が翻弄され、仕事を定めるのも先が見えなかった。、
事実の検証、という気持ちで情報収集に視点を移した。
  ブログ 折々情報 http://oriori-info.blog.so-net.ne.jp/

信じがたい狂気が見えてきて、韓国の実態を覗いてみた。
  ブログ 精神の独立 http://greenful.blog.so-net.ne.jp/

半島も大陸も、まるで人類の退化を見せつけるような実態に陥っている。
それに釣られるように、媚びを売る退廃人種。
  日本人でありながら国を裏切る売国奴。
  金になれば何でもOKの拝金主義・欧米列強。

うーん、人が人として生きるには、どうしたら良いのか。
  安倍政権が誕生して、外交・防衛に真剣に取り組んでいる。
  だけど、経済政策は、拝金主義者の路線そのまま。

100点満点の内閣ではない。
しかし、それを倒して・・・・ 代わりが居るか?
  政治家の裾野を広げなければ、選択肢が無いと嘆くことしかできない。
  政治は任せるものでは無い。
    国民の手に取り戻し、参加し、意見を述べ、監視する。
    先ずは、政治を身近なものにしよう。

  日本を取り戻すために、先ず、国民の手に政治を取り戻そう。

そんな気持ちで、
ブログ 「日本の若者よ、政治家を目指せ!」を立ち上げたが、
この 「働くということ」 との並立が整理し切れなかった。
          当然である。
政治家が国民の代理として政治に励む国造りは、
国民が自ら働くことを通して社会を支える国造りと同じ道を歩むこと。
だから、ブログは一つでよいし、一つしか成立しない。(ここに一本化)

政治は生活と直結する。
日本という国が確固とした基盤を提供できなければ、
日本人の生活基盤が安定する可能性は無い、のである。
  政治が拝金主義に陥り、人より金、なら国は亡ぶ。

金に政治を売り渡してはならない。
人が政治を取り戻し、国を造り・守らなければ、生存は不可能なのだ。

時代は、世界的に拝金主義が跋扈する末期的症状を呈している。

働くことを嫌い、蔑み、奪うことを美化する拝金主義は人類を滅ぼす。

働くことに敬意を払う民族は、ひょっとしたら日本人だけかも知れない。
けれども、考えてみよう、
  お互いに働く他者を尊敬しあうからこそ、知恵が蓄積して発展するのだ。
敬意の存在しない社会には、信用も配慮も生れはしない。

裏切りと騙しあいが勝者の証だと嘯く生き方と、
信頼と心遣いを当たり前とする生き方、どちらを望むか。

世界中の人々が本当に望むのは・・・・、
  日本人の生き様を知って驚いている外国人の多いこと!
  ここにお手本、いや、見本が在る。
    正直こそが平穏で継続的な発展を可能にする基本の基本なのだ。

世界に一石を投じよう。
  そういう視点で、日本人としての働き方を考えてゆこうと思う。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


それで、サイドバーにも一文を常駐させることにした。

  【日本の国造り】

日本の若者よ、政治家を目指せ!
物づくりのDNAを生かして、国造りに励もう。

工夫に工夫を重ねて丁寧に仕事をする。
嘘をつかず、誤魔化さず、労苦を厭わない。
働くことに誇りをもち、他者の仕事にも敬意を払う。
  働く=はた(傍)を楽にさせること。
  世の為・人の為
    日本語に託した先人の英知
日本人による日本人の為の日本
  日本の国造りは私達の仕事なのだ。



日本はエネルギー大国になる [これからの仕事]

課題1: 電力の発・送・配分離を為しえるか

 現在、電力料金は、原価の上に一定の利益を上乗せすることによって決定されている。コストが掛かれば掛かるほど、上乗せされる利益の額も多くなる。コスト削減の必要性は生まれない。今まさに、福島第一原発の事故に関する費用を上乗せして、電力料金の値上げを実施しようとしている。役員報酬が返上されたとか、社員のボーナスが無くなったとか、そんな話は聞かない。

 この地域独占を解除し、自由に競争に参入できるようにすれば、コスト削減が実現する。今の独占体制の下では、仮に、自家発電で大きな電力を発電していても、緊急時に近隣の病院などに電力を供給することは出来ない。電気自動車に家庭電力を蓄電し、不足の時間帯には、反対に家庭に電力を戻す、という構想はあっても、その電気自動車が、異なる場所に移動して、よその建物に電力を提供することは出来ないのだ。

 電力こそ、高圧電線を延々と設置することよりも、地産地消で融通し合えば良いのである。実例として、東京都の八丈島では、海の上を送電できないために、地熱で発電し、少し温度が低くなったお湯で、ハウス栽培のエネルギーをまかなっている、と言う。温室の灯油が必要なくなったとの事である。


課題2: 性能の良い蓄電池を開発できるか

 電気は蓄えておくことが出来ない。だから、瞬間最大消費電力を予測して、発電設備を用意しなくてはならない。しかし、電気が保存できたら、どうなるか。消費が少ない時間帯に蓄えておけばよいのだ。大幅な設備削減が可能になる。

 電気自動車の開発競争の中、各国が競って蓄電池の性能を向上させている。この流れが、電気を自由に持ち運び、必要な時に、必要な場所で、必要な人に、必要なだけ電気を提供する社会を実現する。課題1の独占は、早い時期に崩れることだろう。


課題3: 利権にとらわれずに柔軟な思考ができるか

 原子力利権に群がった、企業、政治家、学者、マスコミ、地元地域の汚れた関係が明らかになった福島原発事故。石油利権も同じである。車社会を実現するために必要だったガソリン。原油は、ガソリンだけでなく、灯油、軽油、重油、タールと精製過程で生産される。これを満遍なく消費しなければならない。だから、冬場の暖房だけではなく、ビニールハウス栽培に灯油を用いる、軽油でも車を走らせ、重油でタービンを回し、タールで道路を舗装する。

 地熱発電が、最も効率の良い発電であることが分かっていても、そこからガソリンが生産できるのでない限り、原油の輸入を止める訳には行かない。中東からの輸送経路の防衛にまで経費が及ぶ。

 しかし、車がガソリンから電気に移行するに従って、原油の重要性は低くなる。中東の民主化の波も、あながち純粋な運動とは言い切れないだろう。電気自動車の電気は、原子力で、というのが米欧の基本的な合意だったのではないか。石油の次は原子力で儲ける、という積もりだったのだろう。日本も、この路線に有無を言わさず従わされるところだった。‥‥福島の事故までは。

 さあ、日本はどうするか。少なくても国民は、原子力を基本にすることは許さない。気が付けば、日本の国土は、地震や津波で被害を受けるものの、火山や温泉の地下は、地熱の宝庫である。八丈島の例を、全国に広げてゆけばよい。地域が、自分たちに合った規模で、発電所と消費社会を運営するのだ。地熱なら、タンカーもパイプラインも必要ない。備蓄設備も要らない。天災に備えて盛り土や堤防を大規模に造成する必要も無い。消火のための化学消防設備や冷却のための発電設備を万全に整える必要も無い。天災や事故に遭遇しても、熱湯が吹き出るだけである。

 火力発電も原子力発電も、化石燃料や原子力を使って高温の熱水を作り出してタービンを回しているだけ。わざわざ、多額の金を費やしてお湯を沸かしているだけである。ならば、地下から熱水をくみ上げれば済む。二酸化炭素も排出しない。放射能も出ない。水蒸気だけである。

 地熱発電だけで全てが賄えなければ、日本近海に豊富にあるメタンハイドレートである。火力発電で重油やガスを燃やしている代わりに、このメタンガスを用いる。技術的に難しいことは無い。地熱は輸出できないが、このメタンハイドレートは輸出も出来る。

 日本は、地熱とメタンハイドレートで進めばよい。

 太陽光発電は、面積のわりには発電量は限られている。晴天の昼間しか働かない。車だって洗車が必要なのだ。発電パネルの清掃保全は、結構な経費になる。
 風力発電は、低周波の被害が報告されているし、鳥の死体の山になるとも言う。海岸線や山の稜線は、風車の土台のコンクリートに占領されたくは無い。
 風光明媚な日本の自然は、海も山も平野も、自然のままの美しい姿で、次の世代に引き継いで行きたいものである。

履歴書は手書きに写真貼付、その意味 [仕事に就くために]

ネットを散策していたら、就職活動について気になる書き込みを見つけた。
エントリーシートや履歴書に関して、
  手書きに拘るのが分からない。
    ワープロ打ちの方が読みやすいのに、と。

また、履歴書に写真を貼らなければ為らないのもおかしい。
    顔の美醜で選ぶ訳ではないだろうし、
    面接で遭うのだから必要ない、という。


            ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

① 履歴書の写真

  高校や大学の入学試験の時、受験の願書に写真を貼ったはす。
  また、学生証には写真が貼られていたはず。

    どうしてか。考えたことは無いか。

  そう、写真は本人確認のために必須なのだ。

 学生には、多種多様な社会的特典が認められている。
    通学のための交通機関や、様々な文化施設での学生割引(学割)料金。
    こういう特典を利用するために学生証を提示する。
    学生ではない人間が、偽って特典を使うのを防ぐためだ。

 また、入試などの資格試験では、願書提出に際して必ず写真が求められる。
    身代わり受験を防ぐためである。
    写真が無ければ、年恰好が似ていれば誤魔化されてしまう。
    公正な選考を実施するために、当然の措置である。


 今までの受験体験や、学生証の利用に際して、
    本人確認をされている、という自覚は無かったのだろうか。

        自分が生きている現実を、しっかり見詰めよう。


② 提出書類の手書き要求

 同じ教室で授業を受けている仲間のノートを、覗いてみたことは無いか。
 或いは、試験前にノートの貸し借りをしたことは?

   同じ授業を受けていても、誰一人として同じノートには為っていない。
     みんな違う。
   同じ借りるなら、あの子のノートが有り難い。
     見やすいから、分かり易いから。
     そういうノートを書きたいものである。

 教室にパソコンを持ち込んでいるから、ノートだって手書きではない。
      そう言う人も居るかも知れない。
 けれども、社会に出て仕事に従事すれば、必ず手書きが必要になる。
 一寸したメモ、伝言を大事な時に、大事な人に渡すことになる。

  接客中の上司に緊急用件をメモにして、応接室の客の前で手渡す。
  大事な顧客に覚え書として、ほんの一言を書いて伝達する。
     そんなことは、日常茶飯事に生じるのだ。
  それを、字を書くのが苦手だから、なんて言っていたら大事な仕事は回ってこない。

  上手でなくても良い、読みやすい字を書けるようになろう。
    必要なら、ペン習字の練習帳でも買ってきてなぞってみよう。
    語学やパソコンと同様に、時間と労力を投入しておく価値は有るのだ。

  昔から、「文字は人を表す、と言うが如し」、である。
    どの様な字を、どの様な並び(文章)で書き記すか、で人物を判断する。
    その判断材料として、手書きでの書類を求められる、と言えよう。


さて、手書き書類の提出を求められるのには、もう一つ重要な要素が考えられる。

それは、集中力。
  消しゴムが使える鉛筆ではなく、ペン(万年筆)かボールペンを用いる。
  誤字脱字は絶対駄目。
  書き間違ったら、修正インクではなく、最初からの書き直し。
  書き終えるまでは気が抜けない。
    集中力を求められるのだ。

  前もって下書きを準備すれば、書き写すことだけに専念できる。
  その分、下書きの作成に時間と労力が必要ではあるが。

  この、下書き作りと書上げまでの集中、‥‥それが応募者に求められているのだ。

仮に、エントリー・シートや履歴書はワープロでOK、という企業であれば、
審査の何処かの段階で、論文試験が課されるだろう。

  2~3時間、部屋に缶詰にされて課題を与えられる。
    最初の30分ほどで、論旨をまとめ、文の構造を組み立てる。
    後は、ひたすら書きまくる。

  漢字を確かめることも、データを引用することも出来ない。

  自分の中にある知識と文章力だけを頼りに、体力仕事で書き綴るのだ。


下書き作りの労力、プラス、書き写しの集中力を、書類提出時に示すか、
知識と文章力、プラス、即興的に書き上げる集中力を、選考場所で示すか、
   時期と場面の違いが有るだけで、
   企業が見極めようとしている内容は同じ、ということである。


手書きの書面を一切見ようとしないで決定される採用。
  それは、人間として期待するのではなく、単なる作業者。
  機械の代用でしかない、と心得ておいた方がよい。

手書き書類を求められる、というのは、人間を見ようとしてくれているのだ。
  選考する側も、書面から人物を知る、という努力が必要になり、
  どの様な人物を採用するかが、企業のこれからを決定する。
  企業の将来を託しての、重要な作業をしようとしているのだ。

だから、手書き書類の提出が要求されたら、精一杯、丁寧に作成して提出しよう。
面接官だけではなく、採用関係の多くの人の目を通って判定されるのだから、
面接場面で必死に訴えるよりも、書類の印象は重要である、と言える。

人を使う立場の人は、知っているのである。
  長い歴史を通じて、人を見ることの重要性を、
  そして、人を知るには文字を見る、という方法が有効である、と。
だからこそ、企業の採用における選考指針として重視されるのである。

タグ:履歴書 写真

神様になったつもりで願いに向き合う [ものの見方・考え方]

世の中には、人の力を超える大きな力を実感することがある。
この大きな力を神様と言い表すことにする。
  (特定の宗教でいう神ではない)。

この神様は、どのような人の、どのような願いを叶えようとするだろうか。
神様になったつもりで考えてみよう。


日々、「神様、お願い!」、と心の中で念じることが多々ある。
  電車に乗り遅れそうになって、「どうぞ間に合いますように」、と念じながら足早に歩き、
  それでも危ないとなると、「うわぁ、神様、何とかお願い!」と走り出す。

  試験などの緊張場面では、「落ち着いて臨めますように」と、息を整えるだろうし、
  厳しい道程では、「頑張り抜けますように」と、後押しを願う気持ちになるだろう。

    そんな経験は、誰だって、何度も何度もある筈だ。


● では、神様が自ら采配を振るうのはどんな時だろうか。

クリスマスのサンタさんは、
  一人一人が、何を欲しがっているか分かっていれば、プレゼントを用意し易いだろう。
  サンタ父さんは、それとなく子供たちに聞いてみるのではないだろうか。

七夕の短冊には、星の神様へのお願いが書かれている。
  単身赴任の父さんが早く帰ってきますように、とか、
  鉄棒で逆上がりが出来るようになりますように、とか・・・・。

  どちらかと言えば、物をねだる、と言うよりも、状況の変化を願うことが多そうだ。


神様になったつもりで考えてみよう。・・・・どんな時、手を差し伸べるか。

    ①願いが具体的である。
    ②自分の努力で相当なところまで到達している。

  どんな助け? ・・・・・・・・ 分かりやすい。具体的な求め方。
  どれだけの助け? ・・・・ あと一寸。軽く手を差し伸べるだけで良い。

  力を貸す値打ちは有るか? ・・・・ 本人なりに、ずいぶん努力している。

  遣るだけ遣って、後一歩。これだけをお願い! ・・・・という形である。

    自分が何を望んでいるのか。
    自力で乗り越えた部分と、神様にお願いする部分。

  それらを、明解に伝えなければならない。
    自分の中で、神様へのお願い文を清書してみなければならない。

      下書きに始まって、最も重要な点をしっかり明確にする。

  神様に気に入ってもらえるように、筋の通ったお願い文を作成するのだ。


●神様になったつもりで、そのお願い文を受取ってみよう。
    なるほど、うん、力を貸してやろう、という気になるか。

  兎に角、何もかもお任せします。・・・・では、相手にはしないだろう。
  まだ何も遣ってないのですが。 ・・・・では、遣ってから言え、となる。
  選びきれずに迷っています。  ・・・・では、決めてから頼みに来い、となる。


大きなお願いをするには、それなりに、丁寧にお願い文をまとめねばならない。
神様を説得し、これは力に為ってやらねば、という気持ちを起こしてもらおう。

神様に嘘は通じない。ごまかしも駄目。
真正面から来ないなら勝手にしなさい、とばかりに手を引かれてしまう。


現実の世の中では、教師や上司などを騙すことは出来る。
だけど、神様を騙すことは出来ない。
  騙していると自分は知っている。
  これは嘘だ、いい加減にしか願っては居ない、
  そんなに本気じゃないけど、駄目モトでお願いしただけ、
    そんなことを、自分自身は心の中で知っている、のである。

そんな場合、絶対に願いには近づけない。
  なぜなら、神様とは自分のことなのだから。

  神様と向き合う、と言うのは、自分自身と本気で向き合う、という事なのだ。

    人の力を超える大きな力。
    それは、自分自身の中に眠っている可能性、という無限の力のことである。
        神様というのは、自分自身の可能性のこと。

    無限の可能性を、自分の中に発見し、育てよう。
        自分の中の可能性と、本気になって向き合ってみよう。

タグ:神様 願い

「選ばない」を「選ぶ」という生き方 [仕事に就くために]

人は常に何かを選んでいる。
朝、目覚めて直ぐに起きようか、もう少し布団の中に居ようか。
昼には、何を食べようかと店やメニューを選ぶ。
夕方には、家に真っ直ぐ帰るか、ちょっと寄り道しようか、等々。

日常生活での折々の「選ぶ」行為。

だけど重要なのは、人生の節々での進路を「選ぶ」決断だ。

進学、就職、・・・・
それまでにも、子供の頃の、何をして遊ぶ?
  お稽古事は?
  クラブ活動には何をする?


自分のしたいこと、というのは、そういう様々の「選ぶ」過程で分かってくる。

さて、自分で選ばないで、周りの言うままについて行くのはどうか。
親の言うことをよくきく、いわゆる良い子。

自分では選ばない、というのではない。
自分では選ばない、ということを選んでいるのだ。
  その方が、親が文句を言わない。
  その方が、親が喜ぶ。
  その方が、親が褒めてくれる。
つまり、自分にとっても、居心地の良い状態が保てるのだ。


  自分は、選ぶ、という生き方を選んだか。
       選ばない、という生き方を選んだか。

   どちらの生き方を選んできたか、を考えてみよう。

今まで、どんなことを選んできたか、を考えてみよう。
そこから、これからの選び方が見えてくるだろう。

人生は、「選ぶ」の連続だ。
  その自覚が出来なければ、これが自分だ、という生き方はできない。
  このキーワードを、胸の内でしっかりと受け止めてみよう。

自分が選んだ事については、説明するという手間が必要になる。
「選ぶ」という第一歩を省略したままでは、言葉の世界には進めない。
幼い子が、親に分かってもらおうと必死になって言葉を考える。
    分かってもらうために、説明をする。
大人の世界で重要なコミュニケーション能力も、本質は同じである。


            ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「選ばない」を「選んだ」、という人として、菅直人氏を考えてみよう。
  「~さんにお任せして」、「熟慮して」という文言が目立つ。

「~さんにお任せして」は、他人任せ、
「熟慮して」は、先延ばし。

これ程の、分かりやすい人は居ない。

  父親が技術者だったから理工系の大学に進んだ、とは本人の弁。
  だけど、技術者として就職することは無かった。
    進学、就職、どちらも自分で選ぶことはしなかった。

  厚労相時代のHIVの一件も、他の人が進めていたことを、
  伸子夫人の「今だ」という指示で、地位の利を生かした、という。

そういう人が、今は、日本のトップ。
他人任せ、先延ばし、・・・・その行く先は・・・・

この人が選んだのは、自分では「選ばない」 = 責任を取らない。
何も決めないから、責任を感じることも無い。
他人に嫌われないために、他人に任せっきりにする。
それを、権限の委譲、と混同しているから質が悪い。
  任せてやってる、という傲慢さ、だ。

その結果、
任せてやってるのに、気に入らない、となると、腹を立てる。・・・・ イラ菅
任せてやってるのに、火の粉が飛んでくる、となると、逃げる。・・・・ ズル菅
自分では何もしていないから、説明なんか出来はしない。・・・・ アキ菅
事の進展を把握できていないから、全ての態度も空虚。・・・・ スッカラ菅

やがて、八方塞がりで、THE END ・・・・ ア菅


「選ぶ」ということから逃げ続けた生き方。
「選ばない」を「選んだ」。
本人は、責任を引き受けないための賢い生き方だと思っているだろう。

その生き方が、どの様な結末を迎えるか。
これから、私達国民は、目の当たりにすることになるだろう。

  一日も早く、重要な地位から退いて欲しいものである。

タグ:選ぶ
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